総務を勤務されたOB3名、新居 豊亀さん、古川 直昌さん、黒田 正廣さんに
だるまわた看板にまつわる当時のよもやま話をしていただきました。
看板についての当事者しか知らない、おもしろい話が展開されています。
少しでも、レトロ看板についての理解に役立てれば幸いです。
また、疑問点など、ありましたならメールを送ってください。
次回の座談会を開いて、なぞを解いていきたいと思っています。

   

熊本県人吉市赤池原のだるまさん            熊本県阿蘇町赤水のだるまさん

手描きであるので、顔の表情が少しずつ違っているのが分かる。

<だるまわた看板の経緯について>
黒田 だるまわた看板は、いつごろから貼り始めたのですか。
新居 私と古川さんが入社したのは、昭和23年だったんですが、その当時は、まだ看板は立ててなかった。
    その後、大牟田の白金に看板屋の旭堂の下川さんというのが、おらっしゃって、製綿の底紙のラベルを
    切り抜いて、それを看板に写して描かれたのが始まりです。
古川 看板は昭和28年ころからだったようです。厳密に言うとですね、今のだるまさんの絵は戦前の絵とは
    違うんですよ。全然違うんですよね。戦前の看板を見た記憶は私には、ありませんが、戦後、先代の社長が
    そろそろ看板貼りを始めてみようかねと、おっしゃったのを覚えています。
新居 戦前の看板は、戦後の新しい看板を貼ったのを見て回ったときに、先代の社長が、これは戦前の看板だと
    おっしゃっていたのを記憶しています。誰が描いたのかは判らないが、看板屋で描いてもらった看板が
    あったと思います。
古川 そうそう、島原半島で先代の社長が戦前の看板を見たとおっしゃっていたのを覚えています。一目見れば
    判りますよ。だるまの人相が違うから。先代社長が、人相が違うから、昔の看板を見つけたと
    おっしゃっていました。
黒田 私が昭和30年入社だったんですよね。その時、すでに絵描き職人の羽犬塚の下川さん、久蔵さんでしたか、
    会社で描いてもらって、私たちが貼りに行っていた。それまでは、白金の旭堂の下川さんのところで描いて
    もらっていたのを、旭堂の下川さんに貼りに行ってもらっていたと思うんですよ。
    私は30年以降は覚えておりますが、それ以前のことは新居さんが詳しいと思います。
新居 一番最初は、その看板屋さんと当時いた茂治さんが、泊まりかけで、ずうっと貼りに行っていた。
    それから、古川さんのあとに入った益尾さんと泊まりかけで大分あたりまで貼りに行っていた。
    それから、鹿児島の指宿、山川あたりまで貼りに行っていた。四国には行かなかったけれど
    広島県、島根県まで貼りに行った。
黒田 それは、われわれが知っている。昭和30年以降ですね。その当時の国鉄沿線、国道沿いの民家に
    お願いしてですね、三輪車の長いLDというのに看板を載せて、梯子を積んで、だいたい何泊の予定で
    ということで、新居さんから指示を受けて、運転手さんと一緒に乗っていって、そのころは舗装がないから、
    もう埃被って、一軒一軒お願いして、福岡の大牟田のだるまわたといいます。お宅は道路から、よう見え
    ますから、看板を貼らしていただけませんかと言って、OKを頂きましたなら、住所と名前をお聞きしまして
    脱脂綿とタオルをおあげしよりました。当時の商品は綿だけでしたから、五月ぐらいから暇になりますよね。
    そうしましたら新居さんから、新居さんからということは、先代の社長さんからですよね、
    どこどこに貼りに行きなさいと指示を受けましてですね。
新居 入った若い人から看板を貼りに行ってもらいよりました。
    修行のようなもんですな。そして、貼って帰ってきたら、報告を聞いて、それから、見に行っていた。
黒田 帰ってきたら貼ってきた名簿がありますよね。それを新居さんに提出して、そうしたら先代社長と新居さんが
    視察に行かれるんです。だから、手抜きは絶対に出来ませんでした。
    名簿には、看板の種類と枚数を書いていました。看板を貼ったときのお礼は、看板の種類や枚数に
    関係なく一緒でしたが、その名簿を今度は女性の事務員さんが、礼状を全部そこへ出していくんです。
    本当に打たしてもろうたのかを確認するためにですね。架空の名前を書いていないかですね。
    いや、本当に手抜きは出来なかったんですよ。
新居 いやいや、看板は転売することも出来んし、それ以外に使うことも出来んから、そういうことではなかったん
    ですがね。一応、礼状を出しておくと、その後の維持、管理をやっていただけると思ってですね。たとえば、
    風で釘が、はずれてしもうた場合でも、釘を打っていただいたりとか、してもらえるからですね。それでも、
    看板をひっくり返して壁板代わりに使っているところは、何件かは、ありました。倉庫の板代わりとかですね。
黒田 その礼状は、往復はがきになっていましてね。われわれの態度がどうだったとかをですね、質問して
    あったんですよ。
古川 当時のだるまわたは、わただけだったからですね。一年のうちにですね、3月から8月まではですね、
    半年間は、売れんわけですから。それに、ちょうど梅雨にかかるわけですから、雨の日に出かけるときは、
    今と違って道路も悪いし、とにかく大変でした。天草にも行ったけど、天草は当時は橋がなくて、だんべ船に
    トラックを載せて渡らなければならなかった。今のように、道路地図もなかったので、本渡の方は、こっちばい
    いや、あっちばいとか、よかように行ってですね。民家を見つけたら、こーらよかばい、というこって、
    家の方に許しを得てですね、雨が降りよる中を梯子を立てて上にあがらなん。そうしたらですね。
    瓦はツルツルで滑って、しかも看板は三尺真四角なもんで、そりゃ大変でした。
黒田 ほんと二人かかりでないと、そりゃもう大変でした。だから、一人が梯子を押さえて、一人が上がって、
    だから、運転手さんと二人で行って、いやこれもですね、いろいろエピソードがあるんですよ。
    ほとんどの昔の家は板塀だったんで、看板を打ちよるときにですね、ちょうど割れているところがあって、
    そこに打ってくださいと、指定がある場合があったんですよ。あるいは、かんかん照りの時にですね、
    板塀ですから、埃がポンポンでるとですよ。もう顔は埃被ってしもうて、次の家を探しに行くときにですね、
    近くの川で顔を洗ったり、場合によっちゃ全身浸かりよったですよ。
新居 毎年シーズンオフの5月から3ヶ月は、ずーっと看板貼りに行きよった。A班、B班とだいたい2班に
    分かれて貼りに行きよった。長いときは、1週間以上になるときもあった。
古川 山口県、島根県まで行くときなんかがそうですよね。
黒田 その時は、もう真っ黒けですよね。日に焼けて。だいたい8月のお盆ころからは忙しくなりよりましたからね。
    1週間行ってきたら、次の1週間は会社に居て、また次の1週間は貼りに行くというふうに、だいたい
    1週間おきに行っていました。2泊3日とか、3泊4日で看板貼りに行って、だいたい、150枚くらいは、
    打ってきたんじゃないでしょうか。90センチ四角のものと、ひょろ長いのとを一軒でも、両方向から打てる場合は
    4枚貼る場合もあったので1年を通してということになると、2千枚近くは貼っていたんじゃないでしょうか。
    鉄道沿線に貼りに行くときは、今みたいに列車が沢山走っていたわけじゃないですから、トラックで鉄道沿線に
    行って、実際に線路に上がって、見渡してみて、ここらへんがいいと思ったところに貼っていった。
    だから、道路沿いに貼りに行くときよりも、時間はかかっていました。それで、今日は、よし道路を行こう。
    明日は線路沿いを行こうと分けてやっていました。そうせんと、両方いっぺんにすると、ここは貼ったのかどうか、
    分からなくなるんで、それで、分けて貼っていました。
    それに、われわれが貼りに行っていたときは、他の看板、たとえば、ムヒとかが貼ってありました。ちょうど、
    他の看板貼りが盛んだったころと同じだったと思います。おたふくさんが貼っているので、うちも負けられないと
    いうことで、競争しながら、貼っていったと思います。
古川 よその縄張りに入るときには、知名度を少しでも上げるために、看板を貼っていったんでしょう。
    そのころの時代が、今んごつテレビがあるわけじゃないし、ラジオのコマーシャルなんて、そんなに派手じゃ
    なかったし、新聞くらいしかなかった。新聞はあったけど、チラシなんてなかもん。それぐらいですもん。
新居 貼っていったところを、あとで先代の社長と視察に行ってみると、ようこの家に貼ってもろうたなあと感心する
    ところがあったりしましたので、看板貼りに真面目に取り組んで、やってもろうたなあと思うてました。

   

福岡県広川町吉常のだるまさん              最後のころの製作と思われる

<絵描き職人について>
黒田 私が入ったときには、羽犬塚の下川久蔵さんが、手書きですから、間に合わんときがあったんですよ。
    そんなときは、白金の旭堂さんに看板をもらいに行ったときもありました。
    あそこの場合は吹き付けで、顔だけあとで描いてあったんじゃないですか。
    型があって吹き付けて、あとで顔とかを描いてあったのを記憶しています。
    それで、羽犬塚の下川さんが間に合わんかったら、あれが乾かさんといかんでしょ。特に、うちのは
    ビニール塗料で、当時新しい光沢のある塗料で、なかなか乾かんかった。乾かんかったから、
    間に合わんで、旭堂さんに描いてもらったことがある。
新居 工場内でやっていたから、社員の誰かも手伝いよった。
古川 簡単なんですよ。素人ができる。まず最初は白をばーっと塗って、一日中、白ばっかり塗るときも
    あったんじゃないですか。それから、切り抜きの型があるんよ。三尺のトタンに載せて胴体を赤く塗るでしょ。
    胴体にひだがついとる。あれもね、型があるんよ。それを塗るだけ。型があるから、素人でも出来るんよ。
    私なんか、よう遊びに行きよったもん。仕上げはね、下川さんが描きよった。
黒田 顔の目とか鼻とか髭とか眉毛とかは下川さんが描きよりました。
    体のひだとか型はあったけど、下川さんは筆で直接描きよんなはった。
    余談になりますが、アル中なんですよ。手はもうブルブル震えてですね。ところが、看板の絵を描く段になると
    ビシッとなって、それは見事な描きっぷりでした。
新居 工場の中の作業所でやんなはったときは、古川さんとか来て、しよったごたる。
黒田 最初は休憩所の裏んにきだったですよね。大工小屋の隣りのところで、それから、事務所の裏に移って、
    そこが一番長くしてあったんじゃないかと思います。
古川 工場の道路を挟んで向かい側にも小屋があって、そこででもしよった。
新居 下川さんが羽犬塚から通いなはって、工場で描きよんなはった。
黒田 うちに描きに来るきっかけは、はっきりとはしないんですよね。
古川 看板の絵描きの募集をしたとか聞いたことがないもん。
黒田 うちに来るまでは、どこかの看板屋さんにおったと思います。
古川 誰かの紹介やろうね。
新居 羽犬塚に看板を描く人がおんなはるて、誰かに教えてもろうて、お願い行ったんじゃないかな。
古川 安定所なんか看板の職人を探しているとか、申請に行った覚えはない。
新居 誰かの紹介やろうなあ。
古川 何かのひょろっとした話から、来るようになったんでしょううな。
黒田 八時には朝礼に間に合うように来て、五時には帰りよりました。
新居 下川さんが、たまに会社を休まれるときがあって、また飲みなはったんかてね。そんときは、羽犬塚に
    取りに行くときもあった。向こうにたまっておりますから、取りに来てくだいさいて、連絡があってね。
    下川さんが、会社で描いてもらったのは時間給で、家で描いたのは出来高払いだったんじゃないかな。
    こっちで作る以外は時間外の作業になるから、その場合は百枚につき、いくらとかして、向こうで
    おやりなはる作業には、日額のほかにいくらて、してもらいよった。
黒田 旭堂さんの場合は、一枚いくらだったので、筑後の下川さんの場合も、家で描いてもらっていたのは、
    一枚いくらで、会社で描いてもらったのは、時間給だったと思いますよ。というのは、給料日が25日でしたが
    25日に下川さんが事務所に来て、給料袋をもらって帰るのを覚えています。
新居 塗料とかトタン板とかは、向こうで買うてください。会社で払うからということでね。
黒田 トタンはですね、大牟田の中原金物。塗料は同じく大牟田の枝広さんからでした。
    ビニール塗料というのがあって、光沢があった。
新居 下川さんは、そんなに長うは、来よんなさらんかった。昭和38年ころくらいまでだったんじゃないかな。
黒田 そこらへんは、私も定かではないんですが、看板が廃ってきてから間もなく、やめられたんじゃないですか。
古川 そう、およそ10年くらいだったんじゃないかな。
    看板を貼って回ったのは、そんなに長くはなかったんで、よう来て10年じゃないかな。
黒田 看板貼りが、だんだん廃れてきてですね、あとは、わた載せ台ちゅうてですね。大工の西山さんが作って
    それにだるまさんの絵を描いたトタンを貼ってですね。
古川 わたの3貫が載るくらいの大きさでね。それと店先に置く看板をですね。だるまさんの絵が上にあって
    その下に、だるまわたの文字があるのを作っていましたよ。高さが1メートル30くらいのをですね。
黒田 最後に製作した看板は、だるまわたのウイーンふとんの看板でしたね。
    黄色と紺色で描かれた文字看板ですね。
新居 ふとんを造りはじめたのは、いつごろからだったかな。
黒田 明治町にまだ工場があったころで、たしか昭和33年ころから35年ころではなかったかと思います。
(下川 久蔵さんは3年ほど前に他界されたそうです。)

  

JR鹿児島本線肥前旭駅(佐賀県鳥栖市)付近にあった野立て看板

<野立て看板についてなど>
新居 よその看板は旭堂さんみたいに、よそでしてはったんじゃないかな。
    おたふくさんは琺瑯、カクイさんも琺瑯なんで、描いたやつは、うちぐらいだったんじゃないかな。
黒田 ちからさんにしても、高砂さんにしても琺瑯ですもんね。
新居 うちも福岡の看板屋に琺瑯の看板を作ってもろうてもおった。文字だけのね。最初は一文字、一文字
    やったかな。文字が分かれとると、たとえば、「ま」の字が抜けると、間抜けわたになるからちゅうて
    先代の社長は、文字が分かれとる看板は、いかんとおっしゃって、文字がつながった看板だけになった。
古川 そう、だるまさんの絵のついとる看板は琺瑯じゃなかった。琺瑯は文字だけやね。
黒田 野立ち看板は手書きでしたね。あの看板は、全部、旭堂さんがやりよんなはった。
新居 野立ち看板の場合は、最初に土木事務所に申請に行かなんかった。それから地主と交渉せな
    いかんかった。
黒田 ようするに、そこんとこの手続きを旭堂さんが、代行してもらってくれたから、野立ち看板は、全部
    旭堂さんにしてもらいよったですね。最初の手続きは、代行してもらって、次回からは、土木事務所に
    うちから、許可申請の更新をしよりました。
    いまだに壁貼りについては、県の土木事務所から、どこそこに看板が残っていますから、継続の申請をして
    下さいと、書類が送ってきよりますよね。毎年、来てるはずです。
新居 看板を貼りに行った、その年から土木事務所には申請を出しよった。
古川 看板の継続の申請書を書くときには、どこそこの土木事務所から管内に何枚残っていますから、
    いくら収めてくださいてね、言うてくるんですよ。そうしたら、そこには、そんなに残っていません。
    看板を貼りに行ったときの記録を見ながら適当に書いて、うちは、これだけしか残っておりませんと
    送り返すんですよ。そうしたら、向こうは上の段をいって、実際に調べてみたら、どこそこに何枚残って
    いますよと証拠を突きつけてくるんですよ。これには、かなわんで、その通りに収めたわけですけどね。
黒田 こちらも、それをわざわざ調べに行くわけには、いかんもんですから、最後は言いなりですよね。
    それから、昭和40年ころだったでしょうか、観光地なんか、国立公園に指定されたから、そこには
    看板は貼ってはいけないと通知が、よく来よりました。
古川 一番最初に槍玉に挙げられたのは、国鉄沿線のね、野立て看板で、あんまり見苦しいんで、県の
    土木事務所から、はずしてくれて言うてきよりました。もう、綿屋の看板だけでは、ないんですよ。
    もう薬屋じゃ、なんじゃろが、ありとあらゆるものが、わーっと汽車に乗ると見苦しいけん。県条例で
    なくしてくれて。それから、なくなってきた。そりゃ、ぐじゃぐじゃ並んでいたら、きたなかもん。
新居 申請の書類を書くときは、面倒くさかったけど、書いたあとは、役所はとやかくは、言うてこんかった。
    ただ、街中のアーチとかのネオンは、町内会とかから、邪魔になるからとか、そういった問題があったので
    大変ではあった。
古川 大牟田にも県の土木事務所がありますよね。それでね、1年に1回書類を出さなあかんので、用紙を
    もらいに行った。土木事務所とは、面白いところでね。ころころ替わるわけですよ。去年、会うた人と
    違うんですよ。そして、全くこの問題について、詳しくないんですよ。何しに来ましたと聞かれて、看板の
    申請書をもらいに来ました。そうして、書き方が少し変わったですよねって聞くと、私は替わったばかりで
    分かりませんて言うんですよ。適当に書いてくれよて言うんですよ。土木事務所の人にとって、主力の
    仕事じゃないんで、雑用扱いでしたよ。だから、あんまり苦には、ならんかった。書いて事務員さんに
    渡したら、それでオシマイやった。
新居 保険関係は、そうはいかんかったから、気をつけながらしよったけど、その点、看板の書類は、苦には
    ならんかった。

   

炭都まつり                      宣伝カー/だるまわたを先頭に カクイさん おたふくさん

   

初荷の出発前の記念撮影              2台目の宣伝カー/後ろにだるまさんが乗っている

<炭都まつりや初荷についてなど>
黒田 炭都まつりですね。今の大蛇山祭りの前身ですね。今は7月にあっていますが、当時は5月の連休に
    あってました。
古川 この写真は昭和26年ですね。
黒田 大牟田の炭都まつりは、いつから始まったんですかね。
新居 私が会社に入ったときには、すでにあっていた。
古川 このように、派手にやりはじめたのは、昭和25・6年ころからですね。大牟田には昭和25年ころにならんと
    車なんかおらんもん。バスがおらんでしょ。そんなもんで、リヤカーで運びよったもん。
新居 あのー、3輪車が入ったのが、昭和24年。
古川 大牟田市でね、3輪車たいね。大きな、そりゃ戦時中はあったかもしれんけど見らんかった。
    だるまわたとね、三井鉱山とね、染料かね、そこしかなかったもん。
    だるまわたには1台あっただけ。
    このだるまさんは、竹で骨組みして、張子のように作っていくわけですよ。そうして、新聞紙を塗らして
    ベタベタ貼り付けていくんですよ。乾くと、カパカパなるですたい。そうすっと、今度は、赤ペンキを塗って
    いくわけですたい。
黒田 これは、炭都まつりしか使わんかったけど、しばらく置いてありましたよ。
古川 ほんと、いい時代でしたよ。というのはね、4月から8月のお盆までは、わたが売れんでしょ。綿しかしよらん
    かったから、売れんかったから、売りにも行きよらんかった。そうしたら、何しようかっていうこつなって、
    祭りの準備をしようかっていうこつなって、トラックの飾り付けをしてみたり、材木屋に行って、垂木を買ってきて
    枠を打ちつけてね、ペンキ屋に行って買ってきて、塗ったりしてね。あいだには、踊りの稽古がある。そらもう、
    1ヶ月近くもしよったよ。出勤はするが、仕事はなかもん。遊ばせるわけには、いかんちゅうこつで
    やりよんしゃったんでしょうな。
黒田 初荷のときもパレードしていましたよ。パレードする前に男子社員全員で写真に写っていたんですね。
    工場の横に、ずらっと車を並べてですね。そして、全員、車に乗って、そのころ、宣伝カーがありましたから
    宣伝カーを先頭にしてですね。
新居 宣伝専用のニュースカーですね。会社が買うてあった。
古川 まーだ、先にも新型車を入れてあったもん。
黒田 これが、新しいニュースカーですね。後ろに、だるまさんを付けて。
古川 これは、長崎に行ったときのもんですね。おたふくわた、カクイわた一緒に必ずかちよいよりましたもんで。
黒田 得意先さんの店に行って、スピーカーで宣伝するんですよ。専属の社員さんがいて、肉声で読み上げながら
    宣伝していくんですよ。運転手も配送が忙しいちゅうことで、専属に雇うてあった。
古川 そうら、あとから聞いた話やけど、ボディから何から全部、別誂えだったんで、相当な金額がしたと思うん
    ですよ。それはもう、このだるまさんの板金なんか、ものすごく、手が込んでいる。
黒田 おそらく何百万でしょうね。
古川 だから、これを廃車するときには、このだるまさんを外して、とっといたもんね。
黒田 初荷は車が足りなくて、大牟田運送からトラックをチャーターして行っていました。
古川 遠くは大型で、近周りは小型のトラックでやってましたよ。そげんせんと、4日も5日も持ってこんと、なーして
    うちには持ってこんとかて、やかましゅう言われよったもん。
黒田 全部、日帰りで行ってましたよ。私なんか、山口県の防府に行くときは、朝の4時に出発して、防府から山口を
    廻って、帰ってくるころは、8時か9時ころになりよったですもん。そして、4日の日に帰ってくるのが、また
    楽しみですもんね。みんな、だいたい帰ってくる時間が一緒ぐらいでしょ。そうすると、先代の社長の奥さんの
    ごりょんさんが、酒を燗つけて待ってらっしゃる。それを頂くのが楽しみでした。
古川 今のような高速道路のあるのとは、違うもんですからね。国道といったら、ろくすっぽ舗装のしていないとこ
    ばかりでしょ。たとえば、北九州に配達行ってこいて言われると、だいたい5時には出発してですね。
    八幡に着くころには、もう、お昼ですよ。
黒田 朝は、だいたい5時は、ざらだったですね。
古川 5時は、まだ真っ暗ですもん。それに2トン車の3輪車ですね。あれは、運転する真下にエンジンがあって、
    屋根はついとったけど、横がないもんで、吹きさらしですよね。そうするとね、運転手はよかですたい。
    エンジンで温もるから。そばってん、助手席は横に椅子がついとるだけで、そら、全身、吹きさらしですよ。
黒田 初荷のときは、お店さんが喜ばれるのか、わかりませんが、待っとらすですもんね。店の前に降ろして
    幟を立ててですね、当時、タオルを配っていたから、タオルを景品として、さし上げてですね。お神酒を
    必ずもらいよったですね。下関なんか行くと、ご祝儀をもらいよったですよ。長崎はお酒。
古川 お店にとっても歓迎してくれよって、それが、他のお店に対して、ハッタリがありよったもん。だるまわたが
    初荷に来てくれたちゅうてね。派手にお店の宣伝が出来るちゅうことでね。
黒田 一番、派手だったのは、電器屋さんですね。ナショナルさんやらですね。それは、派手でしたよ。
    3日ぐらいから、商売しよりました。わた屋さんもそう。それから、足袋、今の月星とかですたいね。
    そういうところが、初荷を派手に演出しよりました。だから、わた屋さんは、おたふくさんも派手に
    配達しよりました。
古川 トラックに幟を付けてですね。その幟に新居さんが、どこそこの、お店の名前を書いてですね。その幟を
    トラックにくくり付けるわけですよ。それから、笹を付けてですね。笹は甘木山から取ってくる。
黒田 配達した際に、その幟をわたに、くくり付けるんですよ。
新居 そうそう、派手に演出せな、いかんかったから、幟を染めてもろうて、店名のところは、あとから
    手書きしていたんですよ。
黒田 祝初荷と書かれていました。もちろん、だるまわたも書いてありますよ。
新居 初荷のときは、伝票を書くのが、そりゃ大変でした。
古川 だから、初荷が1月の中旬ころまで、かかりましたよ。
黒田 遅いところなんか、まだ来んか、うちに、いつ初荷を持ってくるんかてですね、やかましゅう言われよりました。
    だから、いかに当時は、わたが売れよったかということですね。

      

初代だるまわた社長の大賀茂吉翁像を背景にして、左から黒田正廣さん、新居豊亀さん、古川直昌さん

新居 豊亀さん 昭和23年3月16日入社 昭和51年3月31日退社
古川 直昌さん 昭和23年10月1日入社 平成1年11月30日退社
黒田 正廣さん 昭和30年4月6日入社  平成10年2月27日退社

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